備忘ログ

メモ以上日記未満

再生

久々に更新する。

これを機にブログのタイトルも更新して心機一転。

だれが読んでいる訳でもないこのブログだが、だからこそ人の目を気にすることなく書き綴ることができる。

畢竟、僕が文章を綴るのはほかでもなく自分自身のためなのだ。

文章を書くにあたって、他者の目というものは極力気にしないほうがいい。

いや、これが小説であればそこに他社の目というのは介在して当然だし、最初からそのあたりを意識して文章を組み立てる必要があるのだけれど。

けれどもこのブログはまあ、備忘録もとい備忘ログである。ログというからには脳内から抽出した思考をあるがままに文章に落とし込むのが肝要であって、ゆえに他者の目を意識した文章にはなりようもなくて当然だ。

ほらね、もう文体も表現もすべてがぐちゃぐちゃだ。思ったことをそのまま書き綴っているだけなのだからそれで当然なのだが。

ともかく、最も重要なことは更新を続けることだ。そのためには文章を書くという行為を限りなくハードルの低い行為にしなければならない。今の僕にとって必要なのは、書き続けるというその一点なのだから。

その先に待っているものが何かはわからないけれど、ひとつだけ言えることは、文章を書いている自分はそうでない自分よりも少しだけマシということだ。

まずはリハビリを完遂する。適度な量の文章が書けるようになったら、その次のステップに移りたいと思う。その意思だけは捨てていない。

それがいつになるのかは皆目見当がつかないけれど。

しかしまあ、僕の脳みそは思ったよりはさび付いてはいないらしい。この調子であれば、思考を垂れ流しにするだけで千文字程度はゆうに綴れそうな勢いだ。

ーーこうやってすぐに調子にのるからいけない。先ほどもいったが、大切なのは文章を書くにあたってのハードルをできるだけ低くすること。

とりあえず、今日はここまで。

久々に書いた割には、文章のテンポは悪くない。

郷愁

佐藤光男(36)という架空の男に成りすまして俺はフェイスブックに登録した。

理由は言うまでもなく、遠く過ぎ去った時の向こうにいる知り合いの情報を得るためだ。俺はフェイスブックをするような柄ではないし、そもそもフェイスブックをする資格というかドレスコードのようなものを有していない男なので、実名で登録して過去の友人にメッセージを飛ばす訳にはいかず、佐藤光男(36)という架空の身体を借りて電脳の旅に出た。

かつて俺は、フェイスブックというものに妙に敵愾心を抱いていた。それは俺が陰キャラであることと関係がないわけではないだろう。インターネット上にはSNSが数知れずあるが、フェイスブックというのはそのなかでも一際鋭い輝きを放っていた。それはリア充が放つ特有の光だ。その光の束に当たらないように俺はこれまで電脳世界での旅を続けてきたし、これからもそうする予定だった。

ではなぜ俺は今回仮初の存在を使ってまでフェイスブックに潜入するに至ったのか。それは一言で言ってしまえば好奇心に他ならない。好奇心は猫を殺すということわざがあるが、この場合俺はまさしく猫であった。そして同時に佐藤光男(36)でもある。

実際のところ、フェイスブックに潜入して俺が思ったのは「案外眩しくないな」ということ。いや、皆充実した生活を送っているようには見えた。実際の生活はともかく、このSNSの中ではみんなうまく着飾っているというか、写真だとかメッセージだとかそういう小道具を上手く活用して、それぞれがそれぞれの人生を謳歌しているような印象を受けた。ただそれは俺が当初抱いていたフェイスブックの印象とは少し外れていて、極端な自己顕示欲だとか承認欲求とか「ウチらマジ最強」みたいなノリの世界ではなく、思ったよりも日常的というか平和で角の無い光に満ち溢れていた。

高校の同級生もたくさんいた。ひさびさに見る彼らはやはり学生時代よりも時間がしみ込んだ顔をしていて、けれどあの頃と何も変わっていなかった。

俺はふいに郷愁の念に襲われた。俺にとって高校時代というのは本当に良い時代だった。俺は当時から捻くれていていつも日陰にいるような人間だったが、それでも人並みに青春を謳歌したと思う。部活も頑張ったし、恋もした。告白すらもできないような臆病な感情だったが、今となってはそれすらも懐かしい。時間は過去を美しくする。それはきっと、つらい思い出だけを風化させてくれるからなのだろう。マクスウェルの悪魔のように。

いつかまた、彼らに会いたいと思った。

知的好奇心欠乏症

デジモンアドベンチャーの8つの紋章の中では知識の紋章が最も自分に合っているんだろうな、と思う程度には子供の頃から知的好奇心が強い性格だったと思う。小学生の頃から図書室通いとかしてたし。そんで、好奇心は猫をも殺すとはよく言ったもので、大学時代には強すぎる知的好奇心ゆえにネットと本の世界に入り浸り、現実世界をないがしろにしていたものである。ネットについて具体的に言うと、ニコニコ動画とか2chとか、はてブとか小説家になろうとかその辺である。とくにニコニコなんかは俺が高校生から大学生の頃は恐らく全盛期と言って差し支えない時代であり、それこそ無限に時間を消費することが出来たように思う。高校時代にはおもに歌い手(笑)の動画を見ていて、例えばVIP店長とか歌和サクラとか、よっぺいとか好きだった。やばい、自分で言っておきながらよっぺいとかめっちゃ懐かしい。それこそデジモンの動画漁っててButter-Flyの歌ってみた動画から流れてきた気がする。そんで、大学時代――つまり2010年あたりからは歌い手もなんかちょっと調子乗ってきて、「歌上手いししかもイケメンです☆」みたいなのが増えてきてからあまり見る気が起きなくなり、そんでゲーム実況を見る時間が増えたという典型的ニコニコ民であった訳。ゲーム実況に関しては高校時代から見ていて、羅刹ラジオとかめっちゃ好きだった。蘭たんの24時間ラジオだとか。思うにゲームを観るのが楽しいというよりかは、ラジオを聴くような感覚だったのだと思う。今となってはゲーム実況者も歌い手と同じような商業主義の道に舵を切ってしまい、好きだった実況者が一人また一人と姿を消してしまったのもあって、全く観てはいないのだけど。つわはすとかなんだかんだ好きだった。

小説家になろうも現在よりも随分とマイナーな界隈で、良くも悪くも人は少なかったけれどしかし今よりも利用者の年齢層が高く、そこそこクオリティの高い作品で満たされていたように思う。ちなみに現在のなろうの主流はご存じの通り異世界転移モノだが、2010年頃はどうもVRMMO作品が最も勢い付いていた記憶がある。まあ、SAOなんかはなろう発ではないが元々ネット小説に端を発しているし、VIPのSSで人気のあった「まおゆう」の作者(脱税しちゃったね)が満を持してなろうで「ログ・ホライズン」を書き始めた時期ということもあって、その影響でVRMMOモノが増えていたのだろう。オススメの作品をいくつか挙げるならZwei RondoとかFalse Warとかその辺か。どちらもSAOとは別系統で魅力的な作品。あとはSS速報VIPにあるアイマスSS雑談スレとかもよく通ったなあ。途中からモバスレ民に移民したが。あの辺のコアな板は普通に生きていると出会えないような奇人変人に満ち溢れているのでそこが面白い。パラガスPとかほんとすき。

そんでまあ、大学時代までは強すぎる知的好奇心ゆえに完全にインドアな生活を送っており、いや別にそれに対し後悔しているとかではないのだが、自分はおそらく今後もそのような生活リズムで生きていくのだろうと心のどこかで思っていた。が、社会人となって3年目を迎えた今、俺の知的好奇心は確実に退化していると如実に感じる。原因は分からない。疲労なのかもしれないし、もはや自分はインターネットの面白そうなジャンルを粗方楽しんでしまったからなのかもしれない。あるいは、知的好奇心そのものが根本的に満たされてしまったのかもしれない。ともかく、以前と比べると俺はネットや読書だけで時間を潰すという行為に熱中できなくなってしまったのだ。嫌なのではない。ただ、集中できないのである。あれ程までに「時間が足りなくて楽しみきれない」と嘆いていた学生時代の俺はもはや風前の灯で。その変化は自分をネットや読書から多少自立させる方向に傾いたので「ようやく真人間に近づいた」という安堵感に繋がっている一方、これまでの自分を否定しているようで悲しくもある。が、それが大人になるということなのだろう。考えてみれば、いつだって俺は何かを卒業してきたのだ。それはテレビだったりラジオだったり、ゲームだったりアニメだったり。今回はその対象がインターネットと本だったというだけの話で。人間の感性というものが経験と比例して鈍くなってしまう以上、コンテンツからの卒業というのは逃れられないさだめなのだろう。

そうして俺はまた、新しいコンテンツを開拓しなければならないのだ。やがて卒業するであろうコンテンツを。

 

失われた創造性を求めて

最近は余暇をオーバーウォッチで過ごすことが多い。PS4のFPSソフトだ。日本全国に散り散りになっている大学時代の友人3名と共に音声チャットをしつつゲームに駄弁るといった具合で、ようするに大学時代からあまり変わり映えの無い時間の使い方をしている訳。これはこれで楽しい一方、社会人の数少ない余暇の殆どをゲームにあてている訳なので、読書家を名乗ってはいるものの実はあまり読書の時間が捻出できていないという事態に直面している。書く方面に関しても同様で、最近は全くブログを更新していないばかりかSSや小説を書いたりもしておらず、以前に比べて長文を生み出すのに徒労感を感じている気がしないでもない。創造性などというものはもはや俺の中には全くと言っていい程存在していない。それはちょうど、栓を開けっ放しのコーラからすっかり炭酸が抜けてしまっているような感じに。

さて。ゲームが楽しいのなら別に変に意固地にならずにそれを趣味として生きていけばいいのではないか、なんて声も聞こえてきそうだが、自分の場合、最も幸福を感じるのは良質な物語を読んだり、良質でない文章を書いたりしている時であるという点は今も昔も変わりはない。ただやっぱりそれらの趣味というのは多少、集中力というものを必要とするもので、仕事で疲弊しきっている普段の生活のなかで余暇にまで集中力を発揮するというのはなかなか酷であり、結果として安易にゲームに流れている感がある。前述のオーバーウォッチはPvPPlayer versus player――対戦ゲーム)であるため多少は戦略的要素が求められており全く頭を使わないという訳ではないのだが、それでも読書やブログ執筆と比べるとずいぶん脳みそを使わない。脳みそを使わず、脳みそを打ち合うだけのゲーム性なのだ。

それで、そのようなゲーム色の生活をここ半年程続けてみた訳なのだけれど、これはこれでやっぱり楽しいし、友人と会話していると飽きないし、ストレス発散にもなるのだが、しかしどうにも煮え切らないというか物足りない思いが自分の中にある次第で。昨年までの、クソSSを書いたり毒にも薬にもならないようなブログ記事を更新している期間のほうが、長期的に見た場合には満足感が強い気がしてならない。――思うに俺は、居場所が欲しいのだ。それはあるいは承認欲求という言葉で括られるのかもしれないが、自分の中ではすこしだけ違うと思う。どちらかというとアイデンティティという単語で表すほうが適当なのかもしれない。俺は俺であることを証明したいのである。人によってはそれは仕事だったり家庭だったり、あるいはゲームだったり、そういう場所で実現できるのかもしれないが、俺の場合はどうやら文章なのではないかと思っている。たとえだれもこの文章を読んでくれなくとも、俺がこの文章を書いている時点で俺のアイデンティティは保たれるのだ。そうして俺は満足感を手にいえるだろう。これを趣味と呼ばず何と呼ぼうか。

 

余談。とうとうPSVRの発売日を迎えた訳だが、俺は現在のところ購入には至っていない。理由は至極簡単で、未だやりたいソフトがないのだ。RIGSとかいうロボスポーツゲーは結構楽しそうなのだが、あれは多分複数人でやらないと面白くはない。俺はゲームでフレンド申請ができるほどリア充的気質を備えた人間ではないし、現実世界にも一緒にPSVRを買ってくれそうな友達はいない。という訳で、一人プレイで楽しそうなソフトが出るまでは手を出さない予定である。今心待ちにしているのはエースコンバットの新作。願わくばもう一つのACの新作も発表してくれると嬉しいんだが。

市民、幸福は義務です

最近の俺はそこそこ幸せである。いや、幸せというよりは平和という表現のほうが合っているのかも知れない。ニュアンスとしては後者のほうが受動的な感じがしないでもない。幸せは自ずから掴むものであり、それはちょっと違和感がある。

さて、平和である。大学時代の俺を鑑みると、そこにはただ退廃という言葉の似あう人間がいた。大学にもろくに行かず、かといってバイトやサークルでウェーイすることもなく、ただただ部屋に引きこもってインターネットアニメゲーム読書に興じ、時折友人宅で鍋をつついては朝までゲームをしながら馬鹿話に浸り、月に2,3度は部活に顔を出して幽霊部員の務めを全うするような、そんな非リア階層に属する憐れな小市民であった。

で、まあ憐れな小市民という意味では社会人3年目に突入した今でも特に変わりはないのだけれど、しかし大学時代と比べるとなんというか、俺は「まっとうな人間になった」のだと思う。そうしてそれは、一般的な観点から見れば万々歳というか、成長という言葉で括られて相応しい現象なのかもしれない。

しかし一方で俺は良い年して厨二病であり、これは不治の病だからこれからも俺は厨二病でありつづけるとだと思う。そして厨二病というのは「まっとうな人間」であることをどうしたって嫌う。だってそんなのは自分が単なる普通の人間であるということとほぼ同義であり、アイデンティティの否定に帰結するのだ。そういう意味で俺は社会人になってからつまらない人間になってしまったと自分でも思うし、しかもその流れは今後ますます加速していくだろう。ジャネーの法則よろしく、日々はどんどん過ぎ去っていき、俺はどんどん普通になっていく。それが結構つらい。

自分が特別な存在では無いことを自覚することが、あるいは大人になるという事なのかもしれない。でもそれなら俺は大人にはなりたくないと思う。

 

でもそんな強固な意志とは裏腹に、明日の俺は今日よりもより普通の存在になっているのだろう。なぜなら普通でない存在にとって、この世界を生き抜くのはあまりにも厳しい。人は皆、社会生活を送るために普通になっていくのだ。俺もその例外ではない。

用途によって必要な文章力は全く異なってくる

ただこうして日々のブログを更新するだけであれば、それは冗長にタイピングを叩く能力さえあればどうにでもなるのだが。

これが公文書やビジネス文書であれば正確性や形式というものが大事になってくる。小説となると、人を惹きつけてやまない表現力が必要となるだろうし、解説文であれば読みやすさというものが重要になってくる訳だ。うむ、文章というのは奥が深い。

この中で自分が得意なものをあえて挙げるとすると、それは表現力と言う事になるのだと思う。一応、学生時代はSS書いたり小説投稿していたりしていた訳だし。味のある文章、とまではいかないけれど、普段文章を書く習慣のない人と比べたら圧倒的に表現力というものは獲得しているように自負している。まあ最近は、忙しい日々のルーチンに流されてなかなか文章を生成することが出来ないのだけれど。

ここで本題に入るのだが、最近は作詞を始めてみたところである。無論、曲の作詞である。実は前々から興味は持っていたのだが、「そもそも曲がないと作詞できねえじゃん」という至極当然な結論に至り挫折した経緯があるのだ。しかし、俺の数少ない友人にはバンド活動をして作曲をしている稀な人間がいて、その人曰く「曲なんて後でつければええねん、先ずは作詞してな、それに合わせて曲を作ればええねん」とのことなのだ。

吃驚仰天、驚天動地である。なるほど、自分はどうやら「曲があって詞を作る」という幻想にどうにも捉われていた訳なのだが、良く考えると全てがそうではないのだ。映画化した「ソラニン」だってそもそも歌詞が原作にあって、それに合わせてアジカンが曲を付けた訳だしな。それであれはめっちゃいい曲に仕上がっている訳であるし。

そういう訳で、とりあえず作詞を始めてみた次第である。友人曰く「お前は文章書くの好きだし結構語彙力あるからあっさり作れるんじゃね」なんて甘っちょろいことをのたまっていた訳なのだが、実際その発言はアスパルテームより甘く、なかなかどうしてうまくいかない。上手くいかない理由を考えて時、タイトルの疑問が浮かび上がってきたのだ。

思うに詞――とくに歌詞というのは、一般的な文章とはまるで違う。文章というよりは単語の寄せ集め、といった感覚が近いように思う。

例えば、

 

〇〇 ××

△△の□□

◆◆が■■した

 

みたいな。

つまり、せっかく上手い文章を考えたとしても長過ぎてしまうとそれはあまり詞というジャンルにはそぐわないのだ。どちらかというと単語のピック力というか、瞬発力というか、そういう才能が必要とされているような気がする。「ここでその単語入れてくんの? おっしゃれー」みたいな。

 

そういう訳で、毎日1編ずつ作詞をしているのだが、いまだそのクオリティは衆目に耐えない。でも楽しいのでよしとする。作詞を通じて単語のピック力が上がれば、自分の文章ももうちょっと面白みが出てくるかもしれない訳だし。

 

ちなみに作詞をするということはいずれ作曲に手を出さないといけない訳だが、そちらは個人的にナイトメアモードすぎるので今のところは考えないでおく(最悪、前述の友人に曲を書いてもらうこととしよう……)。

年々人間強度が下がってきている

ようは、寂しさに弱くなっている気がする。

学生時代は「恋愛なんてめんどくせー」だとか「結婚して相手に色々合わせるとかマジ無理」みたいな考えが俺の脳内ではメインストリームになっていた訳だが、最近は「いやでも待って、俺の人生はざっと50年とかそこら残っている訳だけれど、そんな茫漠とした時間を、広大なこの世界を、たったひとりで生き抜くのは少し酷じゃないか?」とか「てか人肌恋しいよね、めっちゃキスしたい」とかそういう考えもむくむくと育っているところでありまして、結論としてはまあ世の一般的な男性と同じ場所に帰結する。すなわち「彼女ほしい」。もっと言うと結婚したい。

これはあくまで言葉の響きの問題なのだが、どうやら俺は「彼女」というよりは「相棒」だとか「パートナー」だとか、そういう関係に憧れているらしい。それは俺自身がどちらかというか男性ホルモン少ない系男子だということに起因しているのかもしれない。

そんで、俺はすでに24才で、もうすぐ25才になろうとしている訳で、いくら晩婚化が進んでいるとはいえ世間的には結婚していてもおかしくない年頃にはなってきた訳で、現在の自分に誰かひとりの人生をまるっと抱え込めるだけの甲斐症があるとは到底思えないのだが、それでもやっぱり結婚というものを意識してしまう年ごろになってしまったのだと思う。

これまでの自分は恋愛という概念がどうやらあまり得意ではなく、ATフィールドを厚く張ってあまり異性に自分の心を曝け出さないように気を付けていた訳だが、ついこの間、自分のなかでパラダイムシフトとなり得る展開に遭遇し「ああやっぱ人肌って暖かいのだなあ」と今更ながら痛感し、その後の自分はひとりでいることにどうにも落ち着かず、こうして支離滅裂な文章を書いている訳なのだ。本当に支離滅裂である。時系列も何もあったもんじゃない。

件のパラダイムシフトについては、ようは職場の後輩と勢いでやることやっちまったということなのだが、その時に自分の中の変なスイッチが入ってしまったようで、その日以来俺は本来の自分を見失っている。あるいはこれが本来の自分なのかもしれない。

 

まあしかし、あれだ。相手がいる女性とは勢いとはいえ滅多な事をするもんではない。それはつまり女性にも、その交際相手にも失礼であるし、何より俺がすごく辛い。このパッションを今後俺はどこにぶつければいいのだろうか。答えは未だ藪の中である。